■■医事争論■■

持論・反論・Objection

『医療費の高騰、医の荒廃、患者の権利』に関する様々議論が、記事・番組に取り上げられない日はありません。問題はその基本的スタンスにあります。問題の全て医療の側に押しつけても決してよい方向には向かいません。医師が反論を投稿してもボツになること多いので、こんなところで発言いたします。

No 反論 持論
【21】 ●プール排水口事故はもはや犯罪行為
【20】 ●「男女共同参画社会実現で出生率が回復する」は間違い ●出生率回復には「ジェンダーフリー」の排除と「公的子育て」を
【19】 ●イラク日本人拉致事件は「この家族にしてこの子・・」と考える ●独裁政権の打倒は時間をかけるべき
【18】 ●拉致問題と日本の朝鮮半島支配の歴史は同列ではない ●拉致問題が示したことは「洞察力の重要性」
【17】 ●小児科を存続するには ●首相の靖国神社公式参拝の解決法
【16】 ●扇大臣の「車椅子でお恥ずかしい」発言は障害者に失礼? ●老人保健施設での薬剤使用制限について
【15】 ●薬害エイズ刑事事件判決に反論 ●日本でも電子刑務所を推進するべし
【14】 ●助産士(男性助産婦)の創設に反対する ●カルテ書式を全国共通にしよう
【13】 ●少年法改正反対に反対 ●抑制はやむを得ない場合がある
【12】 ●やはり医学部入試は偏差値重視が安全である ●いじめ問題で学校を追求することはやめよう
【11】 ●カルテ開示は医師にまかせてよいのでは ●医療事故の根源にはシステムの修正が必要
【10】 ●少年犯罪の度に『命の大切さを教えなければ・・』の意見へ ●介護保険こそ出来高払いで支払うべき
【9】 ●老人の『あとどれくらい生きられるか・・』に愕然とした若者へ ●和歌山の保険金詐欺事件の医師の責任は?
【8】 ●"診療時間内に来てください"の一点張り批判に対して ●セカンドオピニオンの費用は本人負担とするべき
【7】 ●「加害者の人権」はその家族のために必要 ●いつまで局麻剤の使い回しをするのか
【6】 ●老人の薬剤費率が高いのは当然 ●医療者の心理の変遷
【5】 ●障害者の要求はどこまでj実現可能か ●医療と福祉の『見えざる手』
【4】 ●厚生省の『通常輸液にB1添加不要』は間違い ●私は『保険医の定年制に賛成する』
【3】 ●「勤務医はなぜ往診しない」に対して ●チーム医療は最善の医療ではない
【2】 ●脳ドック批判について ●インフォームド・コンセントと言うけれど
【1】 ●頭痛の的確な診断について ●専門医の無駄な医療費について

■反論■ ■持論■
【20】「男女共同参画社会実現で出生率が回復する」は間違い

●出生率が1.29に低下し、小子高齢化社会がいちだんと加速している。そして人口構成のアンバランスは年金・介護・経済発展など日本の将来に暗い影を投げかけている。さて、識者 (多くは50代以上の男女同権・民主教育の第一世代) は「男女共同参画社会実現で出生率が回復する」と盛んに宣っている。しかしこれは全くの間違いである。
 北欧では確かに若干の回復が見られた。しかし日本では「男女共同参画社会」によって女性はますます子供を作らないであろう。なぜかというと現在の日本女性が子供を産まない本当の理由が識者に全く理解されていないのである。
 小子化の問題は2つに要約される
1)女性の未婚化
2)既婚女性の出産の忌避
である。
 最初になぜ女性が未婚化しているのか。本当は結婚したいが「適当な人がいない」と主張する。適当な人とは理想の男性のことであるが、それは、1)収入が高く、2)学歴が高く、3)背が高く、4)親と別居し、5)家事を手伝ってくれて、6)「私を理解してくれる人」なのである。最近は3高から6条件に変化している。つまり最近の未婚女性は外で働こうなどとは思っていない。家庭に入るが、安定した夫の収入の元で、趣味やカルチャーセンターなど(責任の伴わない範囲で)社会とかかわりたいと思っている。理解してくれる人とはこのような女の自由な生活を許す男性のことである。夫は外で働きなおかつ家事・育児を半分背負うことになる。妻は家事・育児は半分、趣味と自由が半分である。今後このような生活を約束できない男は絶対結婚できない(間違いない!)。
 第2の既婚女性の出産の忌避については、最近の結婚は「できちゃった結婚」などと言い少なくとも1子は出産する。しかし自由を満喫した現代女性が姑との別居を選んだ結果、24時間休むことができない育児を体験して、全くお手上げ状態になる。いくら夫が熱心に育児に協力するとは言っても、1-3才までは母親のかかわらなければならない場面が多い。このことから第2子を出産しない母親が多くなるのである。
 したがって「男女共同参画社会実現」では女性は働きながら育児をすることになり、どんなに保育園を増やしても、今まで以上に子供を作らないであろう。
2004/5/28 関
【20】出生率回復には「ジェンダーフリー」の排除と「公的子育て」を

●左記に論じた様に、日本で出生率を回復するには2つの方法が必要となる。
 第一に未婚女性が結婚を考える様にしなければならない。すなわち魅力的な男性を大量に作らなければならない。まず収入について、結婚した場合夫の収入が相当額増加する社会制度を実現したい。これは自営業を含めすべての職業においてである。第二に男性の大学全入制を実現したい。容姿については残念ながらお手上げであるが、家事を手伝える男性を多く生産しなければならない。義務教育で男性に家事・育児を必須として教育しなければならない。さらに男性には女性を如何にして喜ばせるか、服装や話術から性生活までの花婿修行を徹底して行う必要がある。このようにジェンダーフリーの思想を排除して、男らしい男(イケメン)を大量に生産する必要がある。
 第二に既婚女性の第2子の出産を促す政策が必要である。これはかつて公的介護制度ができたように公的育児制度を導入する必要がある。すなわち女性には子供を産んでもらうが、育てるのは国の責任で行う制度が必要である。母親の仕事の有無にかかわらず、週2日以上のリフレッシュ保育制度が必要である。3才児神話などと胃って、3才までは母親の庇護の元で育児することが重要などという前近代的な思想は捨てなければならない。育児に疲れた母親が幼児虐待を行う例が後をたたないではないか。男性が育児休業をとれると言っても、3ヶ月にすぎない。3年くらいとれないと育児の50%に参加できない。また自営業には育児休暇などとれないのである。これらの解決にはやはり、24時間対応の保育園を余裕をもって設置する必要がある。家族の通院などで子供のショートステイの制度も必要になる。
 さてこれらの制度の財源はどうするか。年金である。年金の運用を返る当てもない財投などに運用せずに、その1/3を子育て支援に当てれば、結果として子供が増えて、年金の支え手が増加して、最も確実な年金財政の健全化になるのではないだろうか。
2004/6/28 関
【19】イラク日本人拉致事件は「この家族にしてこの子・・」と考える

●この事件について、マスコミは"日本政府や自衛隊派遣の批判"に重点を置いているが、本当にそうであろうか。私は今回ばかりはインターネットの意見→「イラク拉致被害者にも責任あり」「家族の態度に意義あり」に賛成である。

 まず最初に、卑劣な拉致誘拐の犯人に強く抗議したい。ここで事件の背景を良く考えてみたい。イラクの驚異を過大に評価し、世界の警察官を自認する現アメリカ政権の誤った政策=「力の行使によって民主主義を確立できる」という短絡的判断から、誇り高きイラク人の生命と財産を限りなく傷つけたことは自明である。
 その様な背景がテロと犯罪の温床をイラクに拡散している。すさんだ心や絶望から、過激な行動に出るイラク人が出ても不思議ではない。
 また民間人が危険なイラクに人道支援や報道の目的で入国することは、勇気ある行動と言える。ここまでは皆共通の認識であろう。
 しかし以下において世論は分かれる。私は危険なイラクだからこそ、それを決断した本人もまた送り出す家族も、覚悟が必要と考える。現時点では拉致被害者の計画の不備や状況が不明であり、彼らを一方的に批判できないが、アラビア語もできないというではないか。言葉は最後の武器である。犯人と言論による格闘ができないことになる。最たる問題はその家族の対応である。彼らは自己責任ででかけたのである。日本政府の政策を批判して「自衛隊は撤退して欲しい」と要求する一方で、「皆さん助けてください」と絶叫するのは恥ずかしいことである。影で泣くのは良い。大声で泣いてください。しかし自分の家族が危険なイラクにでかける時、最悪の想定とその時のとるべき態度をシュミレーションして欲しかった。これは大冒険と遭難の関係と良く似ている。成功すれば英雄である。失敗しても自己責任なのです。
 北朝鮮による拉致被害者家族の礼節をわきまえた毅然とした態度と比較して、とても奇異に映るのは私だけであろうか。
 最後に時間はかかっても無事帰国されることを願いつつ・・この項を終えます。

追伸;昨日三人は解放されたが、そのときの家族の喜び方もやや違和感ありました。一部の平和活動家の真の姿を見た気がする。確信をもって平和運動を行っているのでしょうが、情熱だけが先行し自己満足だけで終わっていることも多いのです。 2004年4月16日 関
【19】独裁政権の打倒は時間をかけるべき

●世界を見回すと多くの独裁国家が現存する。しかし指摘するべきことは独裁国家=非民主国家ではない。独裁国家ではあるが政治が安定し、繁栄している国も多い。たとえばかつてのシンガポールである。民主国家が安定して持続するには民度が成熟している必要がある。そして国民が自分の要求は掲げても他者との共存の原則を理解している必要がある。さらに経済的に独立して生活できる中産階級が育っていることが必要である。多民族であったり、生活水準が低く、時には汚れたお金も手に入れなければならない状況では民主国家は成立しない。発展途上の過渡期では独裁国家でなければ国が混乱し、バラバラになり、自由はあっても混乱による弊害の方が、独裁による弊害よりも大きいことがある。
 例えば現在の中国は一党独裁であり、官僚の腐敗が目に余る。しかし現在のこの国で、政治の自由化を行ったならば、旧ソ連の崩壊以上の混乱があるだろう。
 さてイラクのフセイン政権は独裁とは言っても、多民族・多部族を一応束ねていた。またバース党率いる官僚制度も一応は機能していたのである。したがってフセイン一族は倒す必要があっても、政権の構造はそのまま残し、バース党穏健派の主導のもとに国家を再建するべきであった。
 フセイン側近のなかには、アメリカに情報を提供した人たちがいるのだから、早く表舞台に出すべきである。また現在のイスラム社会では政教分離は無理だから、イスラム教の穏健派を主体とした、政教一致の政権を樹立するべきである。政教分離と民主国家は100年かけて醸成するべき。
 この点が、自国のスタンダードを世界に押しつけるアメリカの政略の失敗であった。ここまで来るとメンツの張り合いが、多くの人命を失わせていると言える。強い側が先に一歩引くべきである。

2004年4月16日 関
【18】拉致問題と日本の朝鮮半島支配の歴史は同列ではない

●拉致問題に毅然とした立場を表明し抗議すると決まって、日本は過去に20ないし40万人規模で朝鮮半島から、強制連行し従軍慰安婦や劣悪な労働を強いたという反論が出てくる。
たぶんその通りである。しかし次の2点においてこの両者を同列に扱うことはできない。

1)強制連行は不幸な戦争の時代の犯罪行為で、現在その悲しみや怒りは持続していても、不法行為は終了し、北朝鮮にたいしては何らかの保証を行う段階である。然るに拉致問題は現在進行中の現政権の国家犯罪である。この犯罪行為を中止させ完全に現状復帰しなければならない。
2)日本の強制連行は過去の日本の指導者ないし軍部の犯罪行為である。彼らが直接糾弾されるべきで、その多くは極東軍事裁判で有罪となった。もちろん恩赦で政界に復帰した者もいたが、現在は引退ないし墓の中である。我々第2・第3世代の日本人は道義的責任はあるが、直接責任を取る立場にはない。一方拉致問題は現北朝鮮政権の犯罪であり、直接糾弾されるべきである。
3)もし強制連行と拉致を相殺させる立場ならなら、日本の戦後保証は不要になるし、今後いっさい日本の歴史認識を批判してはならない。なお我々現在の日本人に強制連行の責任はないように、北朝鮮人民に拉致の責任がないことは自明である。

2002/11/11 関
【18】拉致問題が示したことは「洞察力の重要性」である

●2002年9月17日の日朝首脳会談で、金総書記が日本人拉致を認め、今まで拉致などあり得ないと主張してきた一部文化人や野党の敗北が明らかになった。彼らの当時の論法は、1)物的証拠がない、2)在日朝鮮人帰国者がいるので日本語教育のため拉致をする意味がない、3)韓国への亡命工作員の証言は伝聞にすぎない、などであった。
それらの言い分は確かにもっともであった。しかし今日の社会を健全に保つには、多くの情報から、何が真実であるのか、何が虚偽であるのかを推理し洞察し、迅速に必要な処置をとることである。特に国家の指導的立場にあるものは、この決断に迫られるのである。私は拉致疑惑が状況証拠であっても、日本人の生命財産を守り、新たな被害者を生まないためにも、北朝鮮に毅然として説明を求めた、昨年までの態度は全く正当なものと考える。問題は北朝鮮がこれらの疑惑を単に言葉で否定してきたことにある。
日本の調査団を制限なく受け入れ、もし拉致疑惑が否定されたなら、北朝鮮の名誉は大きく高まったに違いない。それを行わず、言葉だけで否定しても国際社会は納得できないのであった。北朝鮮に好意的な日本の知識人に求められるのは、自らの判断能力の欠如を自覚し懺悔しなければならない。そして二度と表舞台に出ないことである。

2002/11/6 関
【17】小児科を存続するには

●某ニュース番組で「小児科医の減少は小児科がもうからないから、なり手がいない」、「赤ひげ小児科医はいないのか」などと解説していたがとんでもない近視眼的発想。

●全国の基幹病院で小児科の閉鎖が相次いでいる。この問題の根源には、病院の経営危機にある。あらゆる日本社会において、どんぶり勘定的経営体質から、独立採算主義へと脱却がなされている。
 病院においても、各科における独立採算制が求められている。ほとんどの病院では、毎月診療科別の診療報酬(売り上げ)グラフが張り出されている。各科医師にとっては、「働け働け」とむち打たれる毎日である。この精神的重荷のため、自殺した小児科医師のニュースが最近日本を駆け巡った。結局、小児科(精神科医療にも当てはまる)診療は、成人と比較して、とても手間がかかるのである。泣かないようにあやしながら、診察をしなければならない。その結果、特に病気として治療する必要がないことが多いのである。したがって、検査や投薬は不必要であり、医療費はほとんど請求できない。この結果小児科部門は赤字部門となる。
 病院では全体で黒字であれば、存続できる。しかし一般診療所では、赤字は致命傷である。この現実を放置すれば、小児科開業医が今後いなくなるであろう。
●そこで解決法を提案する。老人医療費の高騰に対して「包括医療」が導入されたように、小児科医療にも、「包括性」を導入するべきである。このようにすれば、検査や投薬と無関係に、一回診療ごとに定額制の医療費が請求できる。これは医療費の高騰につながるが、そもそも、不当に安い小児科医療費に問題があるのであり、現状打破と未来を担う子供の健康のためにはやむを得ない。
2001年11月
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【17】首相の靖国神社公式参拝の解決法

●毎年終戦記念日になると、周辺諸国(中国・韓国)から激しい抗議が行われる。もちろん国内の平和団体からも抗議がなされる。首相の靖国神社参拝の問題点を整理すると以下のようになる。
1)政教分離の立場から、一国の総理が特定宗教団体に礼拝すること自体、政教分離に違反する。(主として国内からの批判根拠)
2)戦前の侵略戦争の精神的主柱であった靖国神社に首相が参拝することは、過去の侵略戦争の肯定につながる。(海外からの非難の根拠)
●私は上記のいずれも正しく、日本国首相は首相在任期間中は靖国神社に、参拝するべきではないと思う。しかし・・・ものごとはそう簡単ではない・・

第1に、政教分離は完全であるべきである。・・がしかし・・米国大統領の宣誓式が司祭の前で行われるように、近代国家でも完全な政教分離は困難である。宗教の権威と厳粛性を様々な政治の場面で利用することは、民主国家でも行われている
第2に、元来靖国神社は明治維新の官軍の戦没者の慰霊のために創設された神社であり、同じ人間でありながら、幕府軍は祭られないなど、政治的に利用された過去がある。戦前はお国のために戦死した英霊の慰霊を目的としてきた。この「お国のため」という言葉自体、戦死を肯定している感は否めない。
 さて、現在の靖国神社に、これら政治的意図が受け継がれているだろうか。たぶんないであろう。また首相が公式参拝することで、大戦で肉親を失った多くの日本人が、心安らぐ現実もある。宗教とはまさに心の充足感であり、一国の首相にはそのような人々への配慮もまた必要である。
●そこで、どうすべきか。日本は都合のよいことに多神教の国である。政教分離に抵触しないために、総理は終戦記念日には、神社・仏閣・キリスト教会、およびイスラム教モスクに礼拝するべきである。また戦死者の美化にならないように、終戦記念日の記者会見では、「戦死者はすべて国家の誤った国策の犠牲者です。」と明言するべきである。決して、「戦死者のおかげで今の日本がある」などと、一部守旧勢力に迎合してはいけない。 
●なお、私の立場は戦前の日本を完全否定しない。戦前の倫理観を、敗戦と共にすべて捨て去った日本は、現在あらゆる場面で荒廃がおきているではないか。2001年11月
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【16】扇大臣の「車椅子でお恥ずかしい」発言は障害者を冒涜?(A紙の投書)

●8月のA新聞の投書に「足を痛めた扇大臣が"車椅子でお恥ずかしい"と発言したが、この発言は車椅子生活の障害者に対してとても失礼である!!」とありました。皆さんどう思いますか。
●私は全く問題ない発言だと思います。投書の考え方には賛同できません。その理由は明解です。扇大臣は自分の不注意で転倒し、その結果一時的に車椅子が必要となりました。したがって大臣はこの一連の事故について、自分の不注意から車椅子のお世話になったことを恥じたのです。これは暴走運転で自損事故を起し、松葉杖をついた若者が「松葉杖でお恥ずかしい」と反省を込めて話すことと同じです。同じ車椅子の患者でも、病後の後遺症と闘って、けなげに生きている方もいれば、飲酒運転で事故を起し車椅子の世話になった人もいます。前者は誇れる車椅子であり、後者は恥ずかしい車椅子なのです。このように同じ車椅子という現象でも、その背景によって様々な解釈ができるのではないでしょうか。扇大臣は自らを恥ずかしいと言ったのであって、決して車椅子生活の一般障害者を"恥ずかしい"と言ったのではないですよ。2001年9月2日
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【16】老人保健施設での包括制に特例を!

●もう我慢なりません。老人保健施設が設置されてはや13年。当初から丸めによる診療報酬(=包括医療)で薬漬けが改善される反面、必要な投薬もされない可能性が懸念されていたが、後者の弊害が目に余る。最も被害を被っているのは、パーキンソン病患者である。パーキンソン病は患者数も多く、100人くらいの高齢者を扱うと1人は紛れ込んでいる。この病気の薬は高価なので特定疾患(難病)に指定され、一定の条件があれば、医療費は公費で負担される。しかし、パーキンソン病患者が老人保健施設に入所すると、これらの公費負担は解消され、すべて包括医療すなわち、施設の負担となる。したがって施設としては高価な薬剤は処方したがらない。この結果歩けるパーキンソン病患者が歩けなくなる場面に遭遇する。一体全体「パーキンソン病患者の会」は何をしているのか。このような不条理を改善するべく運動しなければならないのに。
最近発売されたアルツハイマー病の"アリセプト"も高価な薬剤であり、同じ問題を抱えている。2001年9月4日
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【15】薬害エイズ事件の刑事責任について

●第一審は無罪の判決が出た。その要旨は、1)当時血液製材の危険性は十分理解されていなかった。2)他に適切な治療方法がなかった。3)他の医師も同じ行為を行っていたので、被告一人を有罪に出来ない。以上の3点である。
民事裁判と刑事裁判の相違は大きい。刑事事件とは犯罪者を罰する制度である。従って冤罪を生まないために、疑わしきは被告の利益にという慣例がある。今回の判決はこの観点に立って、道義的責任はあるが、有罪とするほど悪質ではないという趣旨である。しかし、法律以前に医療常識が問われている。医師が薬物を処方するとき、利益と不利益を常に考えて、処方する。薬剤であれば副作用が疑われればその時点で、中止するのが鉄則。当時はエイズの新知見が月の単位で明らかになっていた時期である。そのキーパースンはロバートギャロ博士である。薬害エイズが発症した当時、ようやく研究機関でエイズ検査ができるようになった。事実被告の安部氏もギャロに血液を送って、感染の確認をしている。従って、安部氏がかかわっていた初期は、血液製剤の危険性はまだ周知されていなかったが、その後数ヶ月で一機に危険な薬剤であるという認識が確立したのである。そのために欧米では加熱製材に切り替わったのである。この時点でもまだ安部氏は非加熱製材を投与続けた。さらにその権限をもってすれば、加熱製材の緊急輸入と国内での使用変更がなされたはずである。従って、安部氏は二重の罪を犯している。第1に直接自分の患者に危険な薬剤を投与した。第2に指導的立場にありながら、最善の意思決定をしなかったのである。やはり有罪であろう。
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【15】電子刑務所を推進しよう

●外国では犯罪の多発に伴って、刑務所への収容が困難となり、微罪に限って電子刑務所が利用されている。このシステムは、本人に装着した送信機とGPSによって、24時間体制で受刑者を監視し、その生活圏を制限するところにある。
犯罪の抑止力はなにも身体的刑罰だけではない。犯罪者の20%は再犯を犯すというが、その原因は自己抑制ができないところにある。刑期を終了し、一機に自由の身となれば、実社会では多くの誘惑が待ちかまえている。再犯の抑止には自ら行動を律する精神的訓練をすることが重要である。電子刑務所は刑期内において自宅と職場など必要最低限の自由行動のみ許可するものである。この過程で多くの誘惑や衝動を自制する訓練がなされよう。
もう一つ、最近の多発するストーカーや性犯罪などは、この監視システムによって、再犯が完全に抑止されるであろう。
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【14】●助産士(男性助産婦)の創設に反対する

●数年前から男性にも助産婦資格を与えようという意見が看護協会などから出ている。その理由を新聞記事から整理すると次の4点である。1)男性に門戸を閉じていること自体男女差別の制度である。2)男性が加わることで助産婦の仕事自体が活性化される。3)婦人科医師は男性が圧倒的に多いのになぜ男性助産婦がいけないのか。4)助産士には助産以外の男性不妊などの分野で活躍できる。以上にまとめられる。
1)に反論したい。どのような理屈をつけても、助産士の仕事の中心は出産介助になるであろう。もしそれ以外の仕事を主体とするなら、他の名称を創設すればよい。出産介助は医療行為ではないので、緊急時には誰が介助してもよい。しかし予定された出産の時に、女性が男性助産士の介助を望むだろうか。医療の現場では患者の羞恥心を傷つけない様に最大限配慮しなければならない。受け手の女性の強い希望がない限り男性助産婦を創設しても、就職できないことになる。医療職は経験によって成長するので、資格をとっても実際に出産介助の機会がすくないとすれば、やがてその能力も低下するであろう。2)については、「女性職場特有の風潮を自認している」わけで、言わずもがなである。自らの仕事の活性化は自ら行うべし。3)に対して反論する。本来婦人科医師は女性が最適と思われる。中国ではほとんど女医さんという。しかしそのハードな仕事から、日本では女医さんに敬遠されている。ここは是非とも職場環境の改善を図り、女医さんに奮闘していただきたいものである。もし現状のままで助産士ができると、出産の現場は夫を含め、妊婦以外男だけということになる。ここに妊婦への精神的重圧とセクハラが発生する危険が潜んでいる。やはり男性医師に対する女性(助産婦)の監視が必要。4)に反論する。私がもし男性不妊であった場合、男性に対してでなければ話せないことなどなにもない。もしそうであれば男性医師にお話しするだけである。
最後に、この問題は男女区別であると思うが、男女差別というならば、あえて男女差別が限定的に残ってもよいではないか。
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【14】カルテ書式を全国共通にしよう

●多くの医療事故が問題となっている現在、そのリスクを少しでも低下させるためには、医療の現場の取り決めを全国共通化することである。多くの病院で働いてみて、カルテ書式の違いは目に余る。おおむね患者情報・病名・記事・検査欄の順に綴じられている。しかし病名にいたっては、レセプト用の検査名も主診断名も同列に記載している場合が多い。急性期病名と慢性病名も同列である。これは改める必要がある。また、カルテを開いても誰のカルテであるか分かるように、裏表紙にも患者名を記載するべきである。さらには、肖像権の問題もあろうが、患者の顔写真を貼ることが求められる。これによってカルテと患者の入れ替わるミスを予防できる。将来一人1枚の保険証がカードとして発行されるとのことであるが、このカードに写真を埋め込み、カルテに装着して診療を受けることでこの問題は一気に解決する。また最初のページにアレルギー情報を記載するべきであるが、この情報も個人の保険証に記載しておくことが望ましい。
カルテの病歴記載は基本的に日本語とするべきであろう。その場合に仕事の手間が増えることが予想されるので、略語を統一して用いるようにしたい。
処方箋の書式も統一するべきである。特に投薬時間の書式は種々あるが、混乱を招きやすい。また、散薬の処方も、内容量で記載するべきである。
最後にカルテはやがて電子カルテになると思われるが、その前に手書きカルテの共通化を済ませておくべきである。
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【13】少年法改正に反対する理由はない

●凶悪少年犯罪の防止と言う観点から少年法改正が進められている。一部の法学者から少年法改正への反対が叫ばれている。その趣旨は1)罰則強化しても少年犯罪は減らない、2)厳罰主義よりも更正が重要という。果たしてそうであろうか。もし少年法改正が今よりも少年犯罪を増加させる危険があるのなら、改正反対にも理解できるが、そのような議論ではない。一部の少年で少年法を逆手に取った犯罪があることは事実である。少なくとも"厳罰を受ける可能性がある"というだけでも、多少の抑制効果はあろう。次に"因果応報"、"眼には眼を"の報復原理は決して褒められたものではないが、被害者の心情を考えるとき避けて通れない。犯罪者がそれに応じた罰を受けることで、被害者に心の区切りがつき、新しい人生を歩き出すことが出来よう。一部の被害者で、年月ともに殺人犯に対する憎しみが薄れたという実例があるようだが、それはあくまで特殊事例である。
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【13】介護の現場では「抑制廃止」が叫ばれているが

●抑制禁止ははもっともなことであるが、ここぞとばかり一部の人権派であらゆる場面での「抑制の全面禁止」を声高に叫ぶ人がいる。介護者の都合で抑制を行うことは厳に慎まなければならない。しかし重度の知的障害者ないし痴呆患者では全く別の考え方が必要である。全面禁止派によれば点滴中の短期間の抑制も禁止しなければならないという。本人のための安全ベルトという考え方すらいけないというのである。痴呆患者では自分の行動を規制できない場合がある。各種施設では日常的に様々な問題に出会う。一番議論になるのは転倒予防のための抑制であろう。基本的には可能な限り歩行を許可するべきであるが、パーキンソン病など進行性疾患ではやがて歩行困難な時期が訪れる。日常的に転倒する様になったとき、頭部に生傷が絶えない患者に出会う。さらには頭蓋内で硬膜下血腫を起こす人も多い。最近施設内で転倒して硬膜下血腫を生じ、施設側に管理責任が問われるケースに遭遇した。抑制によって、残された筋力を低下させる可能性が多少あっても、褥創に注意しながら車いすに緩やかな抑制を行い、生命の安全のために、重要合併症の発生を予防することは不可欠である。このように本人の生活の質と生命の維持のバランスを考えて、本人の意向に留意しながら、1日のなかで限られた時間、最小限の抑制を行うことは理にかなっている。しかし常に「この抑制は必要か」「他に方法はないか」と自問しながら行う必要がある。最後に一言、我々医師は患者に嫌われてもいいと思っている。すなわち医師は小さな裁判官であるべきで、弁護士のように一方的に依頼者(患者)の味方ではなく、社会全体のバランスにおいて行動したいものである。
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【12】医学部入試は"人物重視"でと繰り返される議論について

●新聞投書欄でもインターネットでの意見でも共通して、「医学部入試は偏差値よりも人物重視で」との議論が盛んである。私はこれに異議を唱えるものである。医師には4種類の人物が混在する。第一は医学知識と人格が備わった者、第二は医学知識はあるが人格が伴わない者、第三に人格はあるが医学知識が乏しい者、第四にいずれも伴わない者である。一医師として学生時代から15年の医師生活の印象は、これらの比率は1:4:4:1であろうか。さて、汚職政治家・破廉恥教師・悪徳医師・暴力警官など、あらゆる集団においてどうしても不適格者は紛れ込むものである。したがって、どのような制度がよりましな医師集団を養成するかという議論が必要である。結論を言うと入試の段階では偏差値(=学力)で選択すべきであると思う。偏差値を悪玉にする必要はない。秀才は偏差値は高いがそれは結果でしかない。人物重視で選択することほど大きな危険はない。その理由は人物重視で選択した場合、学力の伴わない医学生が大量に入学する可能性が高い。最大の問題は人物評価の共通の指標がないことである。医師になるためには、人文科学と自然科学の豊かな知性を背景に、人の病と対峙する力量が 要求される。悪い例をあげると私のクラス(国立医学部)には2名の沖縄県出身者がいたが、当時沖縄県の特殊事情にかんがみ、別枠で選抜されたのである。彼らはとても人柄はよいのだが、学力が伴わず、実習などで我々についてこれない場面が多々あった。結局彼らは医師になれたが私は彼らの患者にはなりたくない。
 一般に"学問は人格の形成を促す"と言うことである。たとえそれが入試であっても、国立医学部に合格するには、数学・化学・物理は当然であるが、英語・国語・漢文など広い学習が要求される。たとえ入試目的でも古文・漢文などを学んだときは、しばし受験を忘れて、秋の夜長その世界に引き込まれたものであった。
 さて、晴れて合格したあとは一時の有頂天もつかのま、専門学年になると猛烈な勉学がかせられる。この段階で間違って入学した者、遊び過ぎた者は脱落する。目的意識と余裕をもって入学した者のみが残る。国家試験の段階でも選択され、結局入学した学生の80%が医師免許を手にするのである。しかしながらこの段階では医師とは言えない。通常2年の臨床経験を経てようやく周囲に認められるのである。特に最後の臨床経験においては、生身の患者と接することになる。課せられた課題(患者)から逃げることはできない。この段階で最後の選択が行われ、ストレスで自殺する者(私の仲間に2名)、発狂して精神病院に入院した者(私の同級生に1名)、結婚に逃げ込む女医さんなど・・、結局75%くらいが医師として人生を歩み始める。そして驚くべきことに、学生時代あんなやつがと思う者が実によい医師に育っていくのである。やはり経験が人を作るのである。それでも不適格医師は出現するが、それはいたしかたない。最後の安全弁は情報公開である。情報公開によってあぶり出された不適格医師は退場するであろう。1999/9/7セキ
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【12】いじめは学校に直接の責任はない

●最近もいじめの有無について学校とトラブルになった父親がインターネットで持論を展開しているという。
さて体罰や猥褻行為など教師対生徒の問題であれば、学校を問い詰める必要がある。しかしいじめはどうであろうか。これは学校で行われたにせよ、結局は生徒間の出来事である。学校は基本的に学問と生活力をつける場である。教師にそれ以上のことを要求してはいけない。彼らに警察権も親権もないのである。いじめの本質は仲間同志の卑劣な行為である。すなわち陰湿な近親憎悪が背景にある。子供は大人の前ではこれらを巧妙に隠蔽するのである。したがって教師が当事者に詰問しても真実はわからないことが多い。このような事例は学校を離れ人権委員会など、権威ある第三者が調査するべきである。
1999/9/7セキ
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【11】医師会の反対でカルテ開示の法制化困難になった・・と批判するA紙へ

●私個人はカルテ開示に大賛成である。カルテは公文書であり、役所の情報開示と同様に一部疾患を除き本人に開示することはなんの問題もない。しかしカルテ開示を法制化することと、自主開示を進めることとは明らかに次元が異なる。まず何度も指摘するが日本の医療は「必要最小限医療」なのである。すなわち少ない人員でコストを押さえつつ、基本的医療を国民に提供することに基軸がある。病院の医師数にいたっては地方の医師不足にかんがみ、必要数の60%を満たせばよいことになっている。この医師定数でさえ満たすことが困難で、名義貸し同様の高齢医師でしのいでいる医療機関は多い。したがって地方の若手医師は都市部と比較して2倍の患者を抱えている。医療機関の宿命としてその日に訪れた患者はその日に診療しなければならない。名物ラーメン屋のように「本日は終了、また明日おいでください」と断れないのである。したがって医師は患者との接触時間を大切にするほど、カルテ記載に割く時間が圧迫されてくる。看護婦も時間以内に診療を終わらせるべく「早く早く」とせかせる。前の患者のカルテ記載が終わらないのに次の患者を呼び込むことは日常茶飯事である。実は私は「 開示に備えてカルテを日本語で書く」と宣言したことがある。しかし3カ月で挫折した。その理由はカルテ記載速度が3倍になり、そのことで患者診療がおろそかになることがわかった。したがってカルテ開示が可能になるには十分な医療スタッフがそろうこと、開示を実行することで必然的に時間コストがかかるがこれを患者が理解し受け入れること。具体的には開示を求める場合は求めない場合の割り増しの医療費を負担することである。そうすればかなりの医師がカルテ開示を門前に表記するであろう。そして開示を求める患者はそのような高コスト病院を訪れればよい。「先生にお任せ型患者」は多くの患者を診る=単価の安い病院に行けばよいのである。もちろん開示しない場合でも証拠保全は可能です。1999.6.30 セキ
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11】医療事故の根絶にはシステムの修正が必要

●医療ミスが起きる度に種々の議論がなされるが、根本的にはシステムそのものをミスが発生しないように変更するべきである。最も幼稚なミスは消毒薬や栄養剤の血管内注入である。この種のミスには起きるべき背景がある。第一に消毒薬と治療薬を同じ冷蔵庫に保管していること。いずれも無色透明で、ほかの容器に移すと中身がわからなくなるのである。また注射器ほど便利な容器はないために、治療薬も消毒薬も、はたまた栄養剤までも注射器で注入する習慣に問題がある。従って解決策の第一は消毒薬になんらかの着色をすること、第二は治療手段以外で注射器を用いないように指導徹底することである。業界は消毒液用注入器、栄養剤用注入器をすぐ作るべきである。すなわち医療者の常識として「菜ばしで食事する」ような医療行為を排除することである。
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【10】少年殺人事件の度に『命の大切さを教えなければ』と答える教育者へ

●少年による殺人事件の根本原因は自己中心性すなわち"思いやり"の欠如と衝動(喜怒哀楽)のコントロールができないことに原因がある。思いやりの欠如には家族愛の欠如が遠因する。愛には対価を伴わないgive & takeの原理がある。両親の愛を知らない子供は他者に対して優しくなれない。暴力の直接的きっかけは、カッとなってその場限りの短絡的行動を取ることにある。少年犯罪の解決に必要なことは、1)家族愛の再構築、および2)メンタルコントロールの鍛錬の2点が必要である。
 それではどのようなプログラムが考えられるのか。家族愛の構築について一定の処方戔があるわけではない。先史時代から最近まで、家族とは共同して農耕を行う最小単位であった。子供は大人の仕事を手伝っていたのである。その過程で社会の仕組みを学びつつ、両親を尊敬しまた愛の交流がなされた。しかし現在の子供は両親の仕事の現場を知らなくても生きていける時代になってしまった。今日の糧(食事)は親の労働の分配であることを直感できない。従ってこの際、余暇・家事労働などすべての機会を家族の交流に利用するべきである。メンタルコントロールの鍛錬には何が考えられようか。大人が子供に精神鍛錬の名目でスポーツなどを強要することには反対である。なぜなら逆に大人が憎悪の対象になるからである。それは自然の力が最もよい。登山・海洋スポーツなどサバイバルを必要とする大自然のなかで、その厳しさにはぐくまれつつ精神鍛錬を行うことが最もよい。

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【10】介護保険こそ出来高払いで支払うべき

●介護保険の導入を控えて、各実施主体から介護認定作業における判定の曖昧性が指摘されている。同じ障害であっても判定者によって大きな相違があるというのである。また、痴呆老人に対しては認定度が不当に低く見なされる懸念もある。日本人は物にお金を払っても、介護(=ソフト)をにお金を払いたがらない。技術料よりも薬剤費が高い日本の医療構造とよく似ている。そこで提案したいのは「何を介護されたか」という実際の行為に対して指数を積み重ね、その点数に対して保険で手当てすることはどうであろうか。事務作業が煩雑になる恐れがあるが、最近の携帯情報端末を駆使すれば解決できよう。出来高払いにした場合不必要な介護を要求する結果、健保同様の過剰請求がなされる不安があるが、介護記録に利用者のサインを得れば解決する。もちろん介護者と依頼者が結託して不正請求するかもしれないが、チェックの指標としてのみ介護度を利用してはどうであろうか。

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【9】某新聞投書欄:1998年12月某日

●老人施設で、20才の若者が老人に向かって、『今年もあとわずかですね』と言ったら、老人は『私もあとどれくらい生きられるか』と答えた。そして若者は自分の何気ない挨拶が老人を傷つけたことに愕然としたという投書について。
●さて皆さん、果たしてこの老人は若者の言葉に傷ついたのでしょうか。私はその場所にいなかったので、微妙なニュアンスはわかりません。しかし一般的に若者が死に対して抱く恐怖と、老人のそれとはかなり異なります。人間は自分の心の窓からしか物事を考えることができません。私もそうです。私は小学生のころ『死』が怖くて眠れないことが何度もありました。100まで数えることができるようになったころに、『人間は70才くらいで死ぬのだなあ・・』と考えると、死がすぐそこまで迫っているように感じたものです。また20代に、筋ジストロフィーの患者が20代で死亡していく現実に接し、大いに同情したものです。しかし40代の現在は死に対してかなり客観的に考えることができます。もし私が40代後半で死ぬ運命であっても、今ならば幸せな人生であったと納得することができます。それは生まれて以来、自分の夢と希望が概ねかなえられてきたこと、多くの良き友に出会ったからです。外来を訪れる老人にも種々の死生観がありますが、ある年齢になると達観する人が多いです。したがってもし私が80代になって、老人施設に入所した時、若者の同じ話しかけに対して、同じ答えをしたとしても、それは人生を振 り返り、思わず口にした溜め息程度の意味しかないでしょう。若者よ思い詰めるな。でも、悩まない若者なんて僕は嫌いだけど・・ 1998年12月17日セキ
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【9】和歌山の保険金詐欺事件の医師の責任は重い。

●林夫妻による一連のヒ素中毒事件について、なぜ医師の責任を追及するマスコミが現れないのであろうか。あれだけ医師の不祥事に敏感なマスコミがこの事件だけは医師の味方(?)なのだろうか。私は関わった医師達は2つの誤りを犯していると確信する。第一は最初の保険金事件で、医師が正確に病因を診断していたら、第2第3のヒ素による殺人(未遂)事件は起こらなかったということである。確かにヒ素中毒の診断は困難であったであろう。しかし診断に確信がもてない重症患者、死亡患者については徹底した解明を行うべきである。類似症例について文献を調べることはもちろん、病理解剖で原因を解明するべきである。病理解剖は遺族の承諾が必要であるが、林夫妻は遺族ではない。死亡した若い従業員の家族が承諾すれば可能であったはずである。第2の責任は保険の診断書作成に関わる医師の責任である。身体障害等級の診断で詐病が見抜けないとすれば、それだけで医師失格である。この背景には、各種保険診断書の作成における、医師と保険業界の甘い癒着体質に問題がある。我々は先輩医師から『患者は弱い立場だから、多少有利になるように記載しなさい』という指導を受けてきた。また保 険業界の契約至上主義に問題がある。特に郵便局の簡易保険は問題が多い。病気が発症してから簡易保険に入ることが可能であるばかりか、露骨に『発症時期を遅らせて記載してあげてください』と担当者から(間接的に)言われたことが何回もある。1998年12月17日セキ
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【8】読売新聞投書欄:1998年6月某日

●論旨:日中から具合が悪くなり、夫の帰宅を待って時間外に医療機関に訪れたら、どこも"時間内に来てください"と画一的な対応しかしてくれない。
●反論:この種の抗議は枚挙にいとまがない。しかし医療の側から見ると"なぜ時間内に訪れないのか"と不満をいいたくなる。医療と福祉施設は地域医療・福祉計画に基づいて計画的に設置されている。個人病院も決して例外ではない。なぜかというと、医療・福祉は国民負担(保険・税金)と密接にかかわっているからである。コンビニのように利益追求企業として、競争原理だけを頼りに無節操に設置すれば、利用率の低下の結果必ず国民医療費、ひいては健康保険料の増加をもたらす。すなわち皆さんに求められることは、我々医療職を効率的に働かせることである。時間外は医師・看護婦も最も疲労している時間帯であり、思考の停滞もありうる。時間外であると多くの職員は帰宅し検査などが手薄になる。必要な検査ができなければ医療を受ける患者にとっても不利益を被る。このように日中から症状がある場合は、多少無理をしても日中に受診するべきである。この問題に関しては日本医師会が、きちんと意見広告を行うべきである。また医療機関側も「次からは時間内に来るように努力してください」と親切に指導するべきである。1998年7月27日セキ
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【8】セカンドオピニオンの費用は本人負担とするべき

●テレビ・新聞で医療における"セカンドオピニオン"の必要性がしきりに叫ばれている。セカンドオピニオンすなわちもう一人の医師の意見を求めることは、より適切な医療を受けたいと願う患者にしてみれば当然の要求である。私の15年間のささやかな経験では、"もう一人の医師の意見を聞きたい"と申し出た患者はいない。また通常の診療行為においては、医師間の治療方針はほとんど変わらないことをまず指摘したい。それでもなお複数の医師の意見を求めたいというのであれば、第2・3の医師の意見についてはその医療費は本人負担でお願いしたい。これは医療資源の公平な利用の観点から必要なことである。たとえば地方では複数の医師の意見を聞きたくても1つしか医療施設がないことが多い。選択の自由がない患者も多いのである。一方都市部では多くの医療機関があり、セカンドオピニオンを得ることは容易であろう。もっともインターネットをはじめとする通信手段の発達で専門情報の地域差はなくなりつつあるが。
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【7】「加害者の人権」はその家族のために必要

●最近少年法の改正を訴える各種マスコミの論調が目立つ。これはいうまでもなく「神戸の少年殺人事件」や「ナイフによる少年犯罪」後に急増している。少年法の理念を更正から処罰に変更すること自体は私も賛成である。しかし加害者(少年)やその家族のプライバシーの侵害はいかがなものであろうか。この場合決まって、(1)「被害者のプライバシーが保護されていないのに、加害者のプライバシーだけを保護するのはおかしい」という対論が出てくる。また(2)「社会防衛の点でも犯人の氏名と写真は平和に生きる国民の知る権利である」という論調である。
 (1)の意見に反論する。もっとも恐れることは、加害者やその家族に対する執ような攻撃である。加害者にしてもまだ犯人と断定されたわけではない。松本サリン事件の冤罪を教訓にすればおのずと理解できよう。ましてや家族に責任があるかどうかはその後の少年審判や裁判などで明らかになるのである。多くの犯罪者の父親が自殺している現実を直視しよう。
 (2)の意見に反論する。確かに平和に生きている家族が、犯罪者から身を守るために多くの情報は開示されなければならない。しかしその開示は、犯罪者が刑期を終了した時点で良い。人相も風貌も犯罪時と刑期終了時は異なっているであろう。したがって犯罪者が社会に復帰する時点で、希望する国民だけに情報を閲覧させれば十分である。1998年5月12日セキ

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【7】いつまで局麻剤の使い回しをするのか

●医源性感染症に対する徹底的な対策が取られている今日でも、いまだに血液を介する院内感染が時々報告される。最近では某透析クリニックにおける、B型肝炎の集団発生、また骨髄移植のドナーがC型肝炎に感染した痛ましい事故が報告されている。なぜこのようなことが起きるのであろうか。これらの疾患は結核やMRSAのように飛沫感染するものではない。したがって誰かが不適切な方法で行った注射行為で感染したと理解するべきである。その場合どのような可能性が考えられるであろうか。研修時代から現在まで多くの病院で普通に行われている注射行為のなかで、「いつも危険だ」と感じていたことに、ヘパリンと局所麻酔薬の使い回しがある。これらは通常冷蔵庫にバイアルの状態で保管され必要に応じて注射器で吸引している。もちろん清潔な注射器で吸引し、1回だけ用いる時は問題ない。しかし不慣れな医師や透析看護者が同じ針で2回吸引することが全くないとはいえない。特に局麻剤は手術領域の広さ応じて適宜追加吸引する必要がある。もちろん、そのたびに新しい注射器を用いる必要があるが、多忙な時などは一度患者の皮膚を穿刺した同じ注射器で吸引する危険が潜んでいる。もし 血清肝炎の患者に用いた針でまた吸引した場合、確実に局麻薬はウイルスで汚染される。その局麻薬を他の患者に使ってしまうことは大いにありうる。全医療機関は直ちにこれらの薬剤について患者1名ごとに使い捨てとするべきである。1998年5月12日セキ●→テーマに戻る
【6】老人の薬剤費率が高いのは?・・当然。
●老人医療費の解析記事で『老人の投薬数、薬剤費率とも世代間比較で最も高い』ことを指摘し、言外に『老人の薬漬け』をにおわせる論評について。1997年12月、新聞各紙
●この手の記事にはうんざりである。なぜなら問題の本質を見抜いていないからである。
 最初に老人の投薬数が多いのはごく自然であるといえる。老人は若い世代と異なり、いわゆる老化現象に伴う各種慢性疾患を罹患している。内科では高血圧・心疾患・脳梗塞など成人病関連の複数診断を下さざるを得ないことが多い。さらに女性では骨粗鬆症、男性では前立腺肥大など合併することが多い。たとえ程度は軽くても診断を下さないと誤診と言うことになる。我々医師はこれらの疾患のすべてを治療するわけではない。この患者さんの今後の人生にとって有用かつ必要な治療を限定して行う。しかし次の3つの問題が潜む。第1は『治療の必要なし』という説明の労力と投薬の労力を比較すると、後者がはるかに楽である。第2に投薬をしないで症状が悪化したときは医師は訴訟の危険を追わなければならない。通常投薬行為そのものが訴えられることはない。第3に患者は未治療(未投薬)では納得しないことが多い。患者は医師の見立てが気に入らなければ転医の自由が保証されている。これらの理由から老人の薬剤数は自然と増加することになる。
 次に薬剤費率であるが、これは数字のマジックを理解しなければならない。老人はそのほとんどが慢性疾患である。従って我々は不要な検査は極力避けるような診療態度を取る。具体的には年1回(誕生日)に各種血液検査や心電図を行うことが多い。この結果、普段は診察と投薬だけの診療行為となる。すなわち老人医療費に占める薬剤費率が高くなるのは当然である。問題の本質を議論するには"比率"ではなく、"絶対値"のはずである。日本のように医師の技術料が安ければ薬剤費率が相対的に高まるのは当然のことである。

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【6】医療者の心理の変遷

●京北病院の安楽死問題、安田病院事件の発生源には共通する原理がある。
 それは『特定者への医療と福祉の重荷』といえる。我々医師は皆理想に燃えてこの道に入る。とにかく最初の5年間は技術と知識を得るため滅私奉公して切磋琢磨する。従って仕事上の精神的・肉体的重荷は当然の修練として受け入れる。しかし、ある段階になると医療全般に目を向ける余裕ができる。その時(マスコミを含めて)批判と権利の主張だけを行い、自らはなにもしない一群の集団に気づく。そして重要なことは社会全体がその主張に躍らされることである。その結果、我々医療者は自暴自棄に陥る瞬間がある。その悪魔は年1回程度は必ず現れる。目の前にガンの痛みで苦しんでいる患者がいたとき、心身とも疲れはてた医師が、『今亡くなってくれたら私も楽になる』と思うことがあるのだ。その時何が起きるのだろうか・・。
 またあるいは、低所得者の医療を担って始めた病院があったとしよう。しかし世間は冷たくこう言い放つであろう。『あそこはホームレスが入院する病院だ』と。その時院長以下職員のプライドは傷つけられる。そうこうしている間に、『これだけの偏見に耐えているのだから、少しは金儲けしてもいいだろう』と考える経営者が出てきてもおかしくない。実にその傾向は多いのだ。精神病院の諸問題も精神病者を民間病院に任せきりにしている現状に、その根源がある。世間がそうさせたと言ってしまえばそれまでなのだが・・。1998年1月5日セキ

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【5】障害者の要求はどこまで許されるか

●新潟で重度脳性まひの少年が『普通高校を受験させて』と要求しているが・・。受験はともかく入学許可は難しい。
●私は障害者(健常者)の社会的要望が全て実現しなければならないとは思わない。そもそも養護学校は普通学校での就学困難な障害者のために、特別に配慮された学校施設である。従って、重度の身体障害者にとっては普通学校で学ぶよりも、はるかに適した環境が用意されているはず(?)である。重度の障害者が普通学校に通学したとき、教師の負担増は想像するに余りあるし、一般生徒からの支援が長期間可能かどうかも考えていただきたい。人間社会では『支える者と支えられる者の利害が衝突する』ことはままある。この時、お互いに譲り合うことが必要である。もし養護学校の制度がなく、就学の機会が奪われているのであれば問題であるが、そうではない。せっかく別途税金を支出して、障害者に特別の配慮をした制度があるのだから、それに従うべきである。健常者が望んでも養護学校には通学できない。男(女)が望んでも女子(男子)校には入学できないことと同じである。障害者を隔離する差別的制度ではなく、区別なのである。しかしながら障害者と健常者の交流は重要であるから、親睦会や定期的交流会を開催していただきたい。もし、養護学校の制度・設備・教育内容に問題あ れば、それを改善するべく社会運動をしていただきたい。最後に養護学校の制度は、確かに差別ではないが差別感を生む可能性はある。しかし私は差別制度と差別感を助長する制度は異なると考えている。前者は許されないが後者の場合は、社会全体のコスト(メリットとディメリット)の比較で考えてはどうであろうか。1997年12月18日セキ

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【5】医療と福祉の『見えざる手』

●結局、医師生活15年の現在、医療と福祉に関する理想と現実のギャップについて1つの結論に達している。そこには経済学者アダム・スミスの経済の『見えざる手』と同じ原理が存在する。医療も福祉も人間社会特有の制度である。それ自体はなんら生産しない。従って医療と福祉に投入可能な人と金は、ほかの生産活動を維持できることが大前提である。10万円の収入しかない人が10万とび1円の生活をすることは許されない。人間社会とて同じなのである。医療と福祉に投入できる人的・物的資源に限界がある以上、それを受ける人たちには、平等に分配されなければならない。しかし、その資源が乏しいときは、現役世代と未来のある子供たちに優先的に振り分けるべきである。高齢化社会の過渡期である現在、残念ながら老人には一定の負担もまた我慢も必要なのである。私も将来老人になるであろう。その頃老人人口はピークを迎えているはずである。私は決して現役世代に迷惑をかけないよう生きること、そして社会にとって私が必要なくなったとき、静かに(自ら)命を終えることをここに宣言する。1997年12月18日セキ

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【4】厚生省の『通常輸液にB1添加不要』は間違い

●4-5年前から高カロリー輸液に伴い、ビタミンB1不足に陥り医原性Wernicke脳症の発症が問題となった。そこで急遽『高カロリー輸液の際はB1の十分な補給を行うように』と厚生省通達が出されたが、『通常輸液では因果関係の確認が得られていないので通達は出さない』という姿勢を崩さない。
●そもそも医学、特に薬害防止の鉄則は、『疑わしきは罰する』である。副作用が疑われれば、直ちに被疑薬を中止するのが原則。ビタミンB1は安価であること、水溶性ビタミンは腎臓から排泄されることから、過量投与の心配はない。従って、通常糖質輸液でB1不足による重篤な脳障害を疑わせる症例報告が複数ある以上、因果関係が未証明でも『疑わしきは罰する』の鉄則から、注意情報を出すべきである。ほかの薬害ではたとえ1例でも情報(イエローカード)を出しているではないか。
●なぜ出さないかというと明確な(彼らなりの)理由がある。すなわち、かつて医療費抑制の立場から、ビタミン剤の保険投与を厳しく査定し、中止させてきた歴史がある。この保険指導後から明らかに重篤な脳障害の報告が増えたのである。従って厚生省が『通常輸液においてもB1投与を推奨する』と通達することは、かつての指導行政の撤回=>自らの誤りを認めることになる。薬害エイズで懲りたはずなのに、またまた自らの誤りを暴露されないように、保身的医薬行政を行っているのである。国会で追求する議員はいないのか・・。1997年12月15日セキ

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【4】保険医の定年制に条件付き賛成である

●厚生省が提案している保険医定年制について、日本医師会は『問題外』と議論すらしない態度を取っている。私は医療過疎地をのぞき定年制を制度化するべきと考える。日本の医療の最大のゆがみは医師の偏在である。すでに将来の医師過剰を見越して全国一律に、医学部定員削減が始まった。我が新潟県は全国でもっとも大学進学率の低い県である。さらに医科大学が新潟大学1つだけである。その卒業生の6割は他県に流れていく。このようにして新潟県では未来永劫にわたり医師不足が続くのである。新潟県で医師が充足している病院は3つしかないといわれる。この暗黒時代を終わらせるには、1)国家による医師の強制的配置(=社会主義的政策)、あるいは2)優遇税制をとるなど利益誘導による過疎地医師の確保(=資本主義的政策)を行う必要がある。前者は医師希望者の質的低下につながりかねない。後者は国民の理解が得られないであろう。最後の手段が、子育てが終わった高齢医師の地方勤務を奨励する政策である。保険医定年制はまさにこれに合致するではないか。都市部の高齢医師で元気な方に地方でのんびりと第二の人生を過ごす医療政策こそ、医師の偏在を解決する手段と考えたい。1997年12月9日 セキ

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【3】「勤務医はなぜ往診しない」に対する反論

●論旨:『いつも受診している病院に往診の依頼をしたら「病院に来てくださいの一点張り」であった。やむなく近医の往診を得て事なきを得た。なぜ病院医師は往診しないのか』(1997年9月某日の新潟日報投書欄)に対する反論。

●反論:そもそも病院は入院患者(重症救急患者)のために存在します。医師は入院患者と外来患者の診療が対立するとき、たとえば受け持ち患者が重態であったりした場合、入院患者を優先することになります。あるいは1人の患者の往診の手間が、2人以上の入院患者の治療を阻害すると判断されれば、入院患者を優先することはいうまでもありません。日本のように病院の外来が混雑していることがそもそも間違いです。外来診療の中心は開業医(診療所)でなければなりません。まず患者さんは近くの診療所をホームドクターとして大いに活用しなければなりません。病院=名医集団ではないことを良く理解してください。熱が出たくらいで病院医師に往診を依頼することなどもってのほかです。一部の難病は専門医師の治療が必要であり、病院医師が定期的に往診することもあります。しかし一般に"病院医師に往診依頼する"行為は『病院の患者は後回しにして、私を特別に診察してください』と言っているようなものです。緊急性があれば救急車を依頼してください。1997年11月18日セキ

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【3】チーム医療は最善の医療ではない

●チーム医療こそ医療の諸問題を解決する最善の方法のように宣伝されている。しかし私はチーム医療の危険な落とし穴を指摘しなければならない。チーム医療の理念が実現するには、1)医師を含め十分なスタッフがそろっていること。2)チームの個々人の技量と知識が均等であること。3)最後にスタッフの生命倫理観が一致している必要がある。日本の医療施設でこれらが満たされているところははたしてあるであろうか。
●第一にチーム医療は話し合い医療である。従って仕事の効率が大いに低下する。医療産業は人件費産業である。仕事の効率が低下すれば、増員が必要で人件費の高騰を引き起こす。これ以上医療費を高騰させることはできないであろう。
●第二の問題は医療スタッフの知識と技量の問題である。日本では准看護婦制度が歴然と残っており、看護婦の中には知識・技量とも劣っている人がかなりいる。准看護婦制度の廃止だけでなく、看護職の生涯教育を制度化するべきである。さらには大卒ナースが専門ナースとして働くような環境がそろわなければならない。現在のスタッフで話し合いをしても、結局医師による教育的検討会になってしまい、本来のチーム医療の形態をなさない。
●最後に生命倫理観の統一である。これが実はもっとも困難なものである。すなわち、生命倫理観は個人の人生経験や、生まれ育った環境などで大きく異なる。たとえば終末医療の場面でどのような治療の選択を行うか議論になることがある。若いスタッフはとかく最大限の治療を行う傾向がある。『人を助けるためにこの道に入った』という思いがそうさせるのである。しかし多くの死を経験した老練なスタッフは、人生の終わり方について様々な考えに到達する。死を見守ることも重要な医療者の仕事であると認識する。この世代間確執は看護婦間にも医師間にもある。難病患者や末期ガン患者の心停止の場面で若い看護婦は必ず心肺蘇生術を行う。医師もそれに参加しないと看護婦ににらまれる。全力を尽くしてもダメだったという状況にしないと納得しない。医者が『この患者は蘇生しないように(DNR)』と指示すると、医師の独断的暴走のように受け取られる場合もある。
●以上のように今の日本でチーム医療を画策すると、非効率と多忙で押しつぶされ、泥沼の人間関係に陥る場合が多い。どのような医療形態が良いかは別の機会に議論したい。1997年12月7日セキ

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【2】脳ドックを批判する一部の放射線科医師へ・・人間(脳)ドックと住民検診は目的が違う

●論旨:『費用対効果が明かでないのに脳ドックを進めるのは問題がある。』という某放射線科医師の主張(日本磁気共鳴学会誌)。

●反論:脳ドックと住民検診(成人病・ガン検診)は目的が異なります。住民検診の目的は、疾病予備軍の検出ないし早期診断により、適切な予防と早期治療で受診者個人の健康増進を計るとともに、合わせて総医療費の抑制効果を期待するものです。従って、この検診に投入する公的資金(税金)と、疾病が予防された結果もたらされる医療費の削減が少なくとも等しいか、後者が大きい必要があります。その証明なくして住民検診を推進してはなりません(ガン検診の問題)。もっとも久山町研究のように、成人病研究が目的であれば、費用対効果の証明は不要です。この場合住民に研究に参加していることを納得していただく必要があります。
●これに対し脳ドックの主たる目的は、現在の最高水準の検診において『あなたは健康である』という証明=Negative stampを必要とする人々の要請に基づいてなされる健康診断なのです。たとえば『身内に脳梗塞が多いが自分は大丈夫か』、『友人にクモ膜下出血で死亡あり』など、漠然とした不安の中で生活している現役世代の不安を取り除き、日々安定した精神状態で過ごすための健康診断なのです。従って、個人の要望にかなったメニューで、ドックを受けることになります。もちろん現在健康な方が受けるわけですから、当然自費です。自己責任で受ける脳ドックに費用対効果の証明は不要です。また、その事実(費用対効果は不明)をあらかじめ説明することが必要です(それがなされていない問題はある)。もちろんこの脳ドックのデータから、『この検査を行うと、この疾患の早期診断と予防効果が得られる』ことが推測されれば、そのメニューを順次住民検診に加えることになります。1997年11月11日セキ

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【2】嗚呼、インフォームドコンセント・・

●世はまさに『インフォームド・コンセント』ばやり。『これを説明と同意と訳したのは誤りである』という、某福祉関係者の意見に賛同するものである。説明と同意では医師が優位に立つ現在のパターナリズムの延長である。真の意味は『正確な情報開示にもとずく自己決定』であることはいうまでもない。しかし情報開示と自己決定がうまく機能するには次の大前提がある。(1)医師が公平な立場で情報を説明する。(2)患者が客観的に自分の置かれた状況を判断できる。(3)患者に熟慮する時間がある。これら3条件が満たされないとインフォームド・コンセントは機能しない。
●従って救急場面では正確なインフォームド・コンセントが不可能である。取りあえず救命処置を行ってから、将来の方針を決定するとき初めて可能である。もちろん心臓マッサージをしながら家族と方針を決めることも多々あるが、これは正確なインフォームド・コンセントとはいえない。この場合生前の意思(Living Will)のみが患者の意思尊重として機能するであろう。通常インフォームド・コンセントは慢性ないし亜急性疾患でのみ行われることになる。
●さて、次に医師が公平な立場で患者に情報を提供できるであろうか。故意に答えを誘導するような説明はここでは除外する。医師が公平な立場をとったと確信しても、実は長い臨床経験や医師個人が得た情報の窓から見た意見であり、そこには必然的にバイアスがかかっている。一人の医師の意見ではとうてい公平な情報とはなり得ない。そこでもう一人の意見(セコンド・オピニオン)が必要となる。場合によっては3rd Opinion、4th Opinionも必要かも知れない。
●最後に、『患者の判断能力』が実はもっとも問題なのである。『医者がガンになったとき』という本でも明かであるが、"患者"になったとたん、自分の病気に対して客観的判断能力を失う。自己中心的になるのである。前の患者の長話に文句をいいながら、自分の番になると長話をする患者と似ている。たとえ正確公平な情報を与えられても、患者はほかの情報(テレビ・新聞・雑誌)で修飾さた結果、不適切な判断をすることも多い。たとえばタキソールという抗ガン剤の使用は、患者の良好な全身状態が大前提であるが、全身状態の悪い患者に懇願され使用して、副作用で死亡した患者がいたという。最後に私が専門とする痴呆患者は『判断能力』が乏しい。
●以上のように、(各科の特性にもよるが)医師が『インフォームド・コンセントが機能した。』と実感する場面は数年に1回というのが、実際であろう。結局医師は不本意ながら説明と同意の段階(パターナリズム)に甘んじているのである。1997年11月11日セキ

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【1】読売新聞、医療ルネッサンス(1997年10月某日掲載)

●論旨:強度の頭痛を訴えるAさんが『群発頭痛』(偏頭痛の一種)の診断を得るまで、多くの医者にかかって、最後に神経内科でその診断を得て、現在発作のコントロールがつくにいたった。的確な診断をしなかった内科医師、眼科医師は問題がある・・と受け取れるもの。

●反論:まずAさんの受診態度に問題があります。頭痛を認める患者さんが全て専門医を訪れる必要はありません。しかし、Aさんは自分の頭痛が長期間持続し、尋常でないことを感じているわけですから、『頭痛の専門外来は何科にあるか』調べる義務がありました。頭痛を専門的に診察する医師は通常脳外科と神経内科でしょう。これらの医師はたとえ"駆け出し"でも、内科疾患、脳外科疾患、眼科疾患(緑内障)、整形外科疾患、耳鼻科疾患、歯科疾患および精神科的疾患を鑑別出来ます。内科的疾患特に偏頭痛であれば、神経内科で治療することになります。仮に一般の医師を訪れたとしても、数回の治療で効果なければ、頭痛専門医を紹介するでしょう。1回の受診で完璧な医療を求めてはいけません。最初の受診で効果ないからといって、すぐ他の医師を訪れる人のなんと多いことか。これこそ医療費の無駄使いなのです。初診料のみならず、採血・レントゲンなど多くの検査を重複して行うことになります。治療効果がなくても、最低数回は受診してください。そして医師に"頭痛の専門家はどこにいますか"と尋ねても良いでしょう。そんな質問で気分を害する様な医師であれ ば、それこそ即刻転医しましょう。1997年10月29日セキ

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【1】専門医ほど無駄な医療を行っている・・

●全ての専門医がそうとは思わないが、『専門医』のなかに、単に"データーをそろえる"という目的のために、不必要な検査を行う医師がいることは周知の事実。これは専門医だけを責めるわけにはいかない。日本の専門医制度は学会が管理運営しているので、専門医を継続にあたり研究・学会活動を暗黙の条件としている場合がある。従って専門医→学会活動(発表・論文)が医師にとって圧力となる。学術研究と臨床医学は目的が異なるはずである。少ない検査で最大の効果を上げるのが名医であろう。しかしそのような診療態度を継続すると、『画像がそろっていない』『検査がそろっていない』ということになる。従って臨床研究においてデータの解析に大きな支障となる。このために専門医は勢い過剰検査の診療態度をとらざるを得ない。私自身も(学会専門医ではないが)我が身を振り返り、反省すべきことあり。1997年11月10日セキ

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